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RANDOM TALK in RANDOM WALK/profile2 夏目房之介×竹田青嗣対談 プロデュース・構成/三好博子 RANDOM TALK in RANDOM WALK/profile1
<第7回>
日時:2004年11月5日(金)
対談:夏目房之介(漫画評論家)×竹田青嗣(哲学者/文芸評論家)
テーマ:「マンガ論、思想に出会う」
会場: 東京ランダムウォーク / 企画:丸顔 / プロデュース・構成: 三好博子
松田
本日の対談は「ぜひ竹田さんとお話したい」と僕の方からお願いして実現しました。なぜ夏目房之介が竹田青嗣さんとお会いしたいのか、というところからお話します。いま僕は、マンガの研究がある程度進んできたことによって、あそこにもここにも出てきた問題を、なんとか橋渡しをしないとならない状況にあるんです。そのためには、全体像を見通すなり、原理的に考えることが必要になってきた。そんなとき、竹田さんの『よみがえれ、哲学』(西研共著:NHKブックス)を読んで、今まで僕がマンガ論を通じて、どうもしっくりこないことや違和感があったりしたことが、「これなら分かるかも知れない」というかたちで分かりやすく書いてあったので、非常に感動したんです。あわてて竹田さんの『近代哲学再考』『言語的思考へ_脱構築と現象学』(径書房)をさらに読ませていただいて、いろいろとお話をお伺いしてみたくなったんです。
飯島
申し訳ないんですが、じつは私はマンガは素人なんです。若い頃はけっこうおもしろく読んでいたんですけど。ただ私は井上陽水が好きで、文芸誌に書いた最初の長編評論が、『陽水の快楽』(河出文庫)という井上陽水に関する評論です。自分ではサブカルチャーをちゃんと文芸誌で評論したのはたぶんはじめてで、偉いと思っていたのですが(笑)、後に続く人があまりいなくて、立ち消えになってしまった。私にも、そういうサブカルチャーに入りこんだ経験があるので、マンガ論とどこか接点があるのではという、それくらいの感じで今日は来させてもらいました。しかし夏目さんの鉄腕アトム好きも尋常じゃないですね(笑)。
松田
僕にとって手塚治虫というのは、親に近いものだったんです。普通の少年マンガは、強く正しく明るいのがいいんですね。ところが手塚さんが描くのは、必ずしもそうじゃなくて、弱かったり迷ったり泣いたりするんですよ。僕はだいたいが情けない子供だったので、自意識の不安を癒されていたんだと思います。
飯島
夏目さんは、ご本でも「自分とは何だろう」と考えると、非常に寄る辺ない気持ちになっていたとおっしゃっていましたね。自分というものの脆弱さを痛切に感じていて、それがマンガに入っていくキッカケとなった。私に少し共通した体験があるんです。大学を卒業したあと全然展望が立たなくて、35歳までフリーターをしていた。20歳代のころはなかなか困った時期で、眠ると金縛りや悪夢ばっかり見る。というのも、私は普通に就職して、音楽番組をつくりたいと思っていたんですが、大学に入ると全共闘の時代で「革命をすべきだ」「企業に入るのは罪だ」とか暗黙の要請がある。それで自分の家への後ろめたさなんかと重なって、ほとんど不安神経症になってしまった。それでも、音楽を聴いているとなんとか元気が出てきて、あれこれやってきたなという経験があるんですね。当時分化のメジャーは、文学と哲学だったのですが、私の場合、音楽がまず、自分のひび割れて穴が開いた部分に入ってきた。サブカルチャーを空気のように吸って、自分という風船をふくらませて、なんとか生き延びてきたかなあという気がします。
松田
僕もヘルメットを被って、長いものを振り回してるような周辺にいたものですから、大学に入った年に精神が壊れまして。やはり不安神経症になって、関係妄想が起こったんです。それがのちに「ああ、やはりオレは漱石の孫だ」って自覚することになるんですけど(笑)。
飯島
私と夏目さんのサブカルチャー体験は、そういう形で入ってきた。でも考えてみると、それは近代社会ではごく普通のことですね。青年の時期というのは、ある意味自我が病気になっているので、ひどく不安定ですが、逆に、そのことが感受性を鋭敏に豊かにするので、いろいろなものを受け入れることができるんですね。
松田
まさしく僕は、自分の自意識を賭けているような瞬間にサブカルチャーと出会って、マンガ表現論のモチーフを得ているんです。当時、佐々木マキのマンガが非常に好きだったのですが、ストーリーがなくて、なんとなく繋がっているイメージや絵が並んでいるだけのものだったんですね。これはマンガだろうかイラストだろうかと考えたときに、やはりマンガだろうと。何が違うかというと、コマなんですね。「マンガっていうのはコマなんだ」と、そのとき思ったんです。僕のなかではマンガに対する恩返しという気持ちがあったので、手塚治虫の死をきっかけに、それを表現論という形でつくりあげた。
飯島
古典的なマンガ論というのは、いわゆる大衆史観を土台にしたような、社会学的なマンガ論なのですが、夏目さんのマンガ論は、夏目さんの自我のヒビ割れのなかに空気がワッと入ってくるようにマンガが入ってきた、その意味が伝わってくる。それが新しいところなのかなというのが私の印象です。
松田
いちばんはじめに表現論を書いたとき、ある程度自覚的に「表現というのは、作者がいて、作品があって、その間にあるシステム」で、それは読む側にも共有されているということを前提にしたんです。作者が作品に向かっていくときの表現システムと読者が読むときのシステムは、おそらく違うはずだということは、うっすら理解していたんですが、とりあえず同じものと見なさないと表現論が成り立たないし、まだマンガ論はそういうレベルまで達していなかったので、社会とか読者とか市場の問題は置いて表現論をやると言明した。ところがここへ来て、それでは済まないことになってきたような気がするんです。
飯島
文学のような表現の純粋形の枠組みだけではなく、サブカルの領域では表現形態がそうとう広いですね。それを時代の中で全体として考えることが必要になってきた。そこで伝統的な表現論だけでは困難がでてきているのではないでしょうか。
近代の典型的な作品表現のジャンルはやはり文学ですね。歴史的にいえば、『クレーブの奥方』が近代はじめの恋愛小説といわれています。近代以前は、人間のこれこそ「本当」の生きる意味、というのは信仰だった。近代以降はそういう超越的な意味としての信仰が崩れる。それでまず恋愛が出てくる。それから芸術と真理と革命が出てくる。この4つのなかで、なんといってもわかりやすいのは恋愛ですね。人間は「役割の中の人間」ではなくて「個人」になるわけですが、個人のなかで、恋愛のロマンチシズムが一番牽引力が強い。それでその表現が、芸術の新しい枠組みの中心軸になったんです。
近代の人間は、思春期になると必ず文化的表現に興味を持ち、憧れ、自分も表現したいと思い、表現について語り合ったりする。それが近代文化の意味のポイントがある。マンガは、あるところまではサブカルチャーの文化現象だったけれど、表現が高度になり、個人の表現として読み手が受け取るようになった。しかしマンガの場合、個人の表現といっても、集団制作や原作などの要素も入ってくる。また、文学の場合には、批評家という専門家の集団がかなり早くから確立するんですが、マンガはそれが遅れてくるわけですね。それが、サブカルチャーといわれていることの意味ですね。表現の水準が一定のところまで上がってくるまでは、批評の言説は集まらない。ところがマンガは、ハッキリとした主体としての作者‐読み手という構図が、文学のようには明確でない。そこで「作り手としての主体、その表現としての作品、受け手としての読者」という枠組みが、またバラけてくるんですね。
松田
日本において特にそうなのだろうと思うんですが、マンガは文学や映画と比べて、確かに遅れています。というのも、まさに60年代の若者文化を契機にして、青年化という現象が起こったからなんですね。それこそが、日本のマンガを特徴づけているひとつの大きなベースなんです。僕の中では、手塚治虫は個人的には幼児期的な記憶に繋がっているんですが、そのなかに思春期的な部分を包含していた。それがあったからこそ、僕個人も、またマンガ全体も、青年化を起こすときに、その包含していた要素を拡張していったわけです。
飯島
なるほど、はい。
松田
これはマンガの世界化現象が起きてはじめて分かったことですが、世界に日本のマンガやアニメが輸出されたとき、誰が一番飛びついたかというと、思春期の若者なんです。それは、あの60年代の時期に始まった青年主題化が理由なんですね。端的にいえば性と暴力なのですが。手塚治虫は、幼児性も持っていますけれども、非常に青年的な人だった。手塚さんが戦後やったことは、何がそれまでと一番違ったかというと、自分が描きたいものを描いたところであって、それはすなわち青年的な問題意識なんですよ。つまり、そこにおそらく僕が自意識の不安と呼んでいるものと繋がる要素があったんだろうし、僕だけじゃなく、多くの人がそれを感じた。そして60年代の後半から70年代の初頭の『あしたのジョー』などに象徴される青年化するマンガの動きというのは、大きな枠組みでいえば、手塚治虫が内包していたものを、反手塚的なものとして拡張していくんです。とすると、青年という近代的な枠組みが問題なのだろうと思ったんですね。
飯島
青年化という言い方は、よく分かりますね。一般的には、音楽やマンガといったサブカルチャーというのは、問題の基軸というのは分かりにくい。文学の場合は文脈がハッキリしていて、「自分だけがこんな苦しみを持っている」と思っていたら、太宰治や夏目漱石も同じ問題を書いている。みんなが切実に考えていたことだと分かるので、この問題のなかにすぐに入っていける。サブカルチャーの場合は、すごく好きで一生懸命になったという体験が、自分にとってあるいは自分の時代にとって、どういう意味を持っているのかが分かるまでに時間がかかる。吉本隆明さんが『ハイ・イメージ論』(筑摩書房)でサブカルチャーを扱ったとき、日本のインテリは文学や哲学をやっていたわけですが、もっと広範な層の人間はそういう自意識の問題を自覚していた。そんなときに、マンガや音楽や映画が入ってきて、サブカルチャーの持つ意味が非常に分厚くなってきたんですね。一方で80年代以降、大ジャンルとしての文学も衰退していって、いろんなところに才能がバラけていった。かつて『巨人の星』や『あしたのジョー』が出てきたころは、何か変わってきた、表現性がすごく上がってきたという感じがありました。あの頃は、そういう問題性を抱えた、それまでならマンガに行かないような才能を持った人たちが集まって、表現として一挙に水準を上げたと思います。陽水、拓郎のあと、八十年代にみゆき、サザン、ユーミンが音楽シーンに現われて、とつぜん日本のポップスの水準が一挙に跳ね上がったのもそうです。全体としては、もと文学と思想が大ジャンルだったんですが、いわゆる大衆社会が現われるのにおうじて、これまでのメジャー文化が相対的に凋落して、それまでサブカルチャーといわれていたものがせり上がって、優れた表現がでてくるのは自然の成り行きというか、必然性がありますね。
松田
まさにそこがお聞きしたかったんです。文学はおそらく19世紀に青年的なものが出てきたときは、哲学とともに大ジャンルだった。だけどそれが読めて理解できるっていう層は古典近代においては、かなりのエリートですよね。
飯島

そうですね、2割くらいじゃないでしょうか。

松田
日本においても、うちの爺さん(漱石)が書いていた時期はそうだったんですよね。2割くらいの人が読んでおもしろがっていたものが、戦後になると教科書にのったりして、国民全部のものになっちゃった。
大衆社会が19世紀の終わりからそろそろ見え始めて、媒体もメディアも変わってきますよね。文学や哲学というのは、そこでどうなったのでしょう?停滞してしまったのか・・
飯島
停滞したというほどではなくても、文学は社会の大衆化や高度化が進めば進むほど、相対的に大ジャンルではなくなっていく。なぜなら近代の文学というのはあくまで1〜2割のいわばエリートと言われるような人たちが読んで、テーマも、彼らの自意識にぶつかるような、つまり超越的な意味とか、自分と社会との普遍的関係が何か、というようなことが問題となっていた。ところがもちろん、より多くの人間はもっとべつの生の理由の領域をもっている。もっといろんな生の感受性があるし、それを味わう仕方もだんだん底上げされてくる。そのなかで多様なジャンルの表現性が上がって、「これはいいんだ」というような批評の言葉がでてくる。それが近代の文化の大きな進み行きですね。
松田
受け手の層が広がっていけばいくほど、多様になっていきますし、知的スノビズムなり通俗化が起こる。まさにマンガというのはスノビズムや通俗化も受け入れつつ生成していくんですね。そうすると常に類型がでてくる。強いヒーローがいて、強いライバルが現れて、それを繰り返す・・・とかですね。それが単なる類型に終わらずに、類型と知って読んでいる人がたくさんでてくる。読みも変わってきて、読者の批評性が、個々の読者において育ってくる。またそれに対応するマンガもでてくる。そう考えると、読者はそれを受容するだけであり、作者はつくるだけであり、作品というのはメディアを介して一方向にいくというのは成り立たなくなってきたように思うんですね。
飯島
たしかに、作品のあり方も受容の形態もどんどん複雑になり多様化してくる。ポストモダン的な表現論が出てくるのも、そういう現象に応じているわけですね。ただ、私の考えは、その様式が多様化しても、近代の文化的表現とその受容の基本関係というのは、ひとつの基本形を持っていると思います。文化的な表現では、「新しさ」というものが常に大きな意味を持っていますね。「新しさ」は普通は形式性として現象するけれど、その本質は感銘の質です。感銘の質の「新しさ」はわれわれに作品を一つの「謎」として与えるからです。もう一つは、うけとる自分のほうにも「謎」が残る。そういう強度が常に問題であって、ショックを強く受け取った場合に「自分も作ってみたい」とか「批評してみたい」という強い動因を与える。こういうものをやってみたらすごく売れたので、自分もやってみた、というのももちろんあるけれど、それは批評の言説は生まない。批評言説が生まれない場所では、売れたりうれなかったりすることの原因や理由は、暗黙のうちに人々に知られている。それは文化の新しい質の水準を生み出さないわけです。そういう基本構造は近代の文化のプロトタイプだと思います。
松田
マンガの場合は、おそらく大衆文化であるがゆえに、劇的に多様化とか多層化が起きていて、たとえば女の子が読者にとって最も重要なアイテムだという表現が成り立ったときに、それがちゃんとしたストーリーの作品であれ、エロマンガであれ、女の子の「かわいさ」の要素だけを愛好する人たちが現れるんですね。同人誌とかで、そのアイテムを使って違う作品をつくっているうちに、そこから作家が育つ。その作家たちは、さらに並列的な説話を増殖していくような仕掛けをする。作品のストーリーは単純でも、複雑に進行する世界を、容易につくってしまうんですね。これは、ある意味で、近代以降の課題だと思うんです。僕とっては、ある部分共鳴して、ある部分すごく違和感があるんですが、「個人としての作家が表現をして作品ができ、個々の読者が受け取るという近代の構図はもうダメだ」と考える人がでてきたんです。とくに読者の側に自分の最も根拠を置くという批評家なり論者がいた場合には、その考え方は非常に強力な武器になる。作家が表現して作品ができるということよりも、社会や読者のなかでこそ作品の価値があるんだという考えですね。
飯島
現象学的に表現作品の構造を考えると、主体が誰であろうとその事実は関係ないんですね。たとえば、夏目漱石が書いていたと思われていたけれども、じつは新事実が見出されて、『道草』は奥さんが書いたものだった、ということもあり得る。1人の作者の作品かと思っていたら、複数の人間だったとか、じつは集合的な伝承だったということもある。しかし、そこに集合的な伝承ということも含めて、誰かが書いた、という確信像が生じるということは不可避で、この信憑自体が作品ということの基本構造です。だから、ある絵を見て、さすがはピカソの絵はすばらしい、と感じる人もいるし、こんなのは豚の尻尾で書かれたもので、何の意味もない、と断じる人もいる。まず、そういう受け取りの信憑は多様ですね。しかしそれぞれの受け取りは恣意的というのではないですね。近代の文化の表現というのは、いわば言説の丸くて長いテーブルをつくることなんですね。みんながそこに集まって、テーブルを囲んで、「これは良かった」「悪かった」という言説のフリーマーケットになる。つまり、たとえばその絵が事実として複製であろうとなかろうと、関係ないんです。ある信憑構造をつくりあげて、これはスゴイ絵だとか、豚の尻尾にすぎないとかいって言説がわきたち、それが人々の創造的活動の空間になるというのが、近代の文化作品が実際に果たしていている役割ですから。
松田
ほおー・・・
飯島

近代では、特に文学では、作品は誰かひとりの人間がつくったものであり、そのなかにある人間的なチカラを見るという構造になるんですね。たとえば、我々はものすごく美しい夕焼けを見ても、自然がつくりだしたある状況が自分に力を与えているので、それが「表現」だとは考えないですね。現象学的に考えれば、むしろ作品たちが読者論を徹底する。読者は誰かがつくったものだという信憑ができたりできなかったりするのであって、勝手につくったり壊したりすることはできないんです。作者論や読者論の源泉であるテキスト論は、作品の多義性を開放した。
古典的なマルクス主義の芸術理論では、文学作品の価値は社会変革の有効性というような場面に還元されますから、「この作品の作家はどういう思想の持ち主か、何を書こうとしていたのか」「それはどれだけ現実を映しているのか」ということが大問題になって、他のものはあらかた切り捨てられた。「作品の真理」だけが問題になった。そういうあまりに硬直した芸術や文学の見方に対してロラン・バルトやデリダなどを始めとする、フランスのポストモダンの考えが現われた。それで、作品というのはもっと多義性があるし、その解釈も当然多様な解釈の自由がある。作品の価値は一義的には決められるものではないと。この主張は当然のことだと思います。ただ、一つ言うと、この場合の多義性とは、簡潔に言えば、作品をテーブルの上に置いたときに、「これはいい」とか「つまらん」といった、言説の自由なフリーマーケットが許されるということであって、「この作品は解釈のしようで、ドフトエスキーよりも傑作とも読めるし、中学生の日記なみの駄作とも言える、」といったものではない。作品がそれぞれの読み手にそのつど与える力は、恣意的ではなくて、作品のほうからある動かしがたい強度としてやってくる。現象学な見方では、これを「到来性」と言っていますが。
作品の多義性とか解釈の多様性ということは、近代文化では本質的なことで、作品をけっして特定の権威によって、また特定の一元的な価値によって判定しないということですね。いろんな人が、好き勝手にこの作者はこれだとか、ちがうとか、なんとでも言える。つまり文化の大きなテーブルがあって、そこでいろんな考えがせめぎあう、それが完全なオープンゲームになるということが決定的に重要で、そういう形式だけが作品とか文化の普遍性というものを保障するんですね。表現の多義性と多様性とはそういうことであって、ある作品をいくらでも恣意的に解釈できる、ということではない。つまり作家論、読者論といっても、文化表現の基本構造は近代が各人の「自由」を解放したということ、政治的自由とともに文化の自由を解放したということから来ているので、その根本は変わらないんですね。ですから、オタク的な感性をもった人が、特定のアイテムから、また何かを作り出すという場合でも、それをオリジナルの喪失と考える必要はとくにないと思います。何かを付加して現われたものが、また新しい作品として大きなテーブルに並べられる。そこにはルールはない。ただ面白いと思う人がいれば、新しい言説のゲームがはじまる。必ずそこから凡庸なものとそうでないものが分かれてくる。亡羊であれば、一過性のもので終わるし、どこか表現性に一定の強度があれば新しい生産をうながす動機になる。古典的な表現者と読み手の関係と思われていたものは、たしかにずいぶん変わったようにも見えるけれど、そういう表現と受け手の構造的な核は、とくに変わったわけではないと思います。

松田
それが一番聞きたい部分だったんです。いまお話された部分を整理していいますと、つまり、表現と呼ばれているものは、近代以前には宗教であったり共同体にあった。個としての人間というものを作者にして表現が生まれたのが近代であると。つまり、実在しなくても、作者がいると仮定しないと、表現論も成り立たないし、作品も成り立たない。読者にとっては、作者に当たるものが見えれば、その限りにおいてそれを論じたり読んだりできる。というか、そうしないと読めないということですね。
飯島
特定の思想をもった作者がそれを表現する、という考えはたしかに古いんですね。つまり「作品は真理をもっている」という考えです。ただ、作品として表現を見る場合、必ずある人間的な意味がそこに表現されているという信憑が近代文化のゲームの基本です。大雑把に言えば、近代以前の芸術作品は、宗教的な共同感情を誰かがいかに巧みに表現するか、ということですね。近代の文化では、何かおもしろいものがあるとしたら、それは個人でも多数でもいいけれど表現した誰かの人間的なものの核だと考えられている。なぜかというと、むかしはある「表現」の背後に、暗黙のうちに、聖なるものや神的なものがあると思われていたのに対して、近代以後、人は「表現」のうしろには個人であれ多数であれ、人間しかいないということを知っているからです。たとえば、カントは、夜空の大星辰を見てその背後にある種の神意に近い「崇高」や「尊厳」を見出します。だけどいまわれわれは、その背後に「自然」以外のものがあるとは考えない。「表現」の背後には、人間か人間が作り為した何かしか直観できないわけです。「この星空や夕焼けはどれほど、またいかに美しいか」という言説ゲームは成立しない。逆に、「表現」のあるところではどこでもある人間の表現行為ということが信憑されて、それでその「表現」の意味や強度についての言語ゲームがはじまるわけです。
いまよく近代はもう終わりで、ポストモダンなので、表現や作品の近代的前提は終わったというようなことが言われているけれど、哲学的にはシンプルです。それは、表現の後ろには超越的なものは何も存在しない。作品の形式、あるいは痕跡だけしかない、という言い方です。だからそれは人間の表現という行為という信憑だけしか存在しない。それを命題として言うと、「作品の真理というものは存在しない、それぞれの解釈があるだけだ」ということになる。でも、現象学的にこれを追いつめると、「表現の背後には超越的なものは存在しない。各人がとけうる作品の強度の信憑性しか存在しない」、という言い方になる。つまり「作品の真理はない、作品の力についての各人の信憑だけがあり、そのことではじめて、批評の自由な言説のゲームが成立している」ということになります。表現や批評をやっている人は、「作品の真理」は信じていなくても、この言説ゲームの普遍性は信じています。「普遍性なんて信じない」と言う人も、そうテーブルの前で言うことで、それを信じていることをちゃんと示しているんですね。
松田
ふふふ。
飯島
これはおもしろいとかつまらんとか言ったときに、もうその普遍性のゲームの中にいる。
松田
そこですよね。普遍性というものがなかったら、アナーキーな状態になる。個人で考えていても、これは妥当だという前提がありますよね。僕がそういった言説に対して半信半疑なのは、本当にそうなら、みんな社会で生きていないじゃないかって思うからなんです。
飯島
まったくそうですね。哲学的にいうと、スピノザという人が、世界は永遠、無限、同一にして神なる実体、と言った。そのあとドイツ観念論で、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルが、世界の全体を一つの原理から体系的にすべて説明し尽くすような試みを積み重ねた。あとマルクス主義の決定論的世界観ですね。「普遍性」という言葉が近年ずいぶん毛嫌いされるようになったのは、そういうヨーロッパ哲学の世界説明があまりに極端だったせいです。ある特定の原理から世界のすべてを一切説明し尽くせるような観点、それが普遍性の観点だ、というような言われ方がされている。たしかに、これだと世界の見方も、世界の意味や価値も、たった一つだということになる。そんな観点は存在するはずがない。でもこれに対抗する「普遍性はない」という論理も、哲学的にはずいぶん古くからあるものです。懐疑論、相対主義、帰謬論というのがそれです。確実なものがいかに存在しないかを証明するというやり方ですが、「絶対普遍性」の考えも強迫観念だけど、この絶対相対主義も言うなら偏執狂です。表現論で言うと、「作品には必ず真理がある」と強弁するのが絶対普遍主義ですが、「表現にはどんな真理も根拠もない」と言い続けるのが、絶対相対主義ですね。テキスト論では、「作者の死」とか言われて、表現主体を、表現作品から切り離して、作品を自立したものと考える。デリダ説がその典型です。でも、ここからは「表現」や「作品」ということ、つまり文化というゲームの普遍性そのものが、説明できない。ちょっとまともな人なら、ある作品の解釈が唯一のものでないこと、評価が絶対的に一義的でないことを誰でも知っている。でもそれは、文学とかマンガとかいった大きな文化のゲーム、つまり、よしあしや強度を言いあう言説のゲームになんの「普遍性」もないことを意味しません。たとえばいちばん単純には、われわれは、ある文学がほかの文学より優れているとか優れていないという価値づけには意味がある、と思っている。同じく、思想や考え方の優劣を確かめあうということには意味がある、と思っている。文化という大きなテーブルの前に集まって表現や言説のオープンゲームをやることに意味があると思っている。「作品の真理などはない」しかし「ゲームをやることの意味はある」、それをみんなが信憑しているかぎりで文化や表現の「普遍性」というものは成立しているわけです。
極端に言うと、「作品にはどんな真理も根拠もない」からは、作品自体にはどんな価値もない、われわれがそれをどう解釈するかがあるだけだ、という解釈主義が出てきます。それは現象学的に言ってもある意味で正しい。「面白い」、は結局信憑だからです。でもそれは、「面白い」とも「面白くない」とも言える、ではありえない。それを解釈の多義性というような人もいる。そうなると、いちばん通俗のソフィシズムです。ここでいちばん大事なのは、さまざまな人が多様な評価をもつということと解釈の恣意性とは違うということ、評価つまり作品の謎めいた力は必ず「到来性」として現われるということです。個々人にとって、これはスゴイとかここには何かがあるという作品の強度は、自由にならない、ということです。そういう感銘の恣意的な解釈不可能性があるから、評価の多様性が現われ、だから表現のオープンゲームが成立するんですね。で、われわれはその表現のテーブルの前に行って座りたいと思う。なぜなら、そういう場所に、権力関係や利害関係ではない開かれたさまざまな他者が存在し、そういう関係の中で生きたいとわれわれが望むからです。自分の表現や言説をテーブルの上に置くということは、真理を主張することではなくて、そういう関係の普遍性を信じて、それを生きようと意志することです。なぜなら、この大きくて自由かつフェアなゲームだけが、「よいもの」とか「優れたもの」「美しいもの」という人間にとっての「価値」の秩序を作り出すしくみだからですね。およそ人間の「普遍性」というものは、そういうフェアなゲームの網の目を通してしか現われ出ないものなんですね。
 だから、作品や表現の「解釈の多義性」を言う人、「普遍性」や「根拠」などないと過剰に言いたがる人は、ちょうど、文化や表現のテーブルの前に立って、どんなテーブルも無意味だと言い張る人に似ています。
松田
本質的に過ぎると「すべてのクレタ人は嘘つきである、とクレタ人は言った」と同じパラドクスになってしまうと。「普遍性っていうけど、そういう超越的なものがあるわけないじゃん」というためのレトリックを使った途端に、それでしかものを考えられなくなってしまうということですよね。僕はよく普遍とか普遍性という言葉を使うんです。ところが頭のいい人は、すぐに「いや、普遍性なんてない」と言うから頭を打たれちゃって、「あ、違うのかな」ってなる。でも、人間は必ず5人いたら5人が一致するものは何か、合意できるものは何かって考えていると思うんですよ。普遍性があるのではなくて、普遍性に向かうベクトルがあるだけと考えるほうが自然だと思うんです。僕は、大人になるというのは、いろんな意見があるという前提で、ゲームができることなんじゃないかなと思うんです。
飯島
ああ、なるほど、「大人」というキーワードは面白いですね。哲学者の西研が『ヘーゲル──大人のなり方』という卓抜なヘーゲル論を書いているんです。やはり私も若い頃は、どこかに「本当の考え」があるはずだと強く思っていた。「真理」がどこかにあるはずだとあるころまで頑なに思っていたんですね。それは大学に入って新しい考えにぶつかったり、いろんな本を読んだりして「これが本当の世界なんだ」と思う。これを私は「二枚目の世界像」と呼んでいるんです。どんな人間でもまず自分の家や世間から自然にルールや世界像を与えられて生育しますから、世界とは、人間とはこうこうだという、はじめの自然な世界像を持ちます。それが一枚目の世界像ですが、青年時代に、書物などによって新しい観念が入ってきていったんそれを解体するということが起こる。私の場合、その二枚目の世界像が、幸か不幸かマルクス主義だったんですが(笑)。二枚目の世界像は非常に強力で、すべてを説明しつくしてくれるような気がする。それは自意識にとって非常に大きなことですから、「これこそ本当だ」と考える。ところが、ヘーゲルに言わせると、それはまだ青年期の真理です。真理をとことん追っかけると必ず苦しんで挫折する。絶対真理という考えにそもそも問題があるからです。でもこれに絶望してきちんと挫折すると、「世の中には、これこそ真理だと思っている人がたくさんおり、つまりさまざまな信念がせめぎあって生きているんだ」ということが知れてくる。人間は何らかの信念なしで生きることができないから、そこで対立が起こるのだけれど、それを調停するのは、ぎりぎり追いつめて、何が「ほんとう」かについてのオープンゲームだけですね。ヘーゲルはそれを「事そのもの」という変な言い方で呼んでいる。そう西研説は言っている。私はそれを三枚目の世界像と呼んでいます。二枚目の世界観は絶対真理説です。でもここで矛盾にぶつかると、しばしば絶対相対主義に向かう。でも重要なのは、世の中にはさまざまな人間がさまざまな世界像あるいは信念をもって生きている。それはそれぞれ各人にとって意味をもっている。だから、そういう多様な信念や世界像を交換しあう関係が他者関係の一つの本質であり、この関係自体を許容するということですね。普遍性とは、何か絶対的な真理を信じるということではなく、むしろその反対に、諸信念の多様性を是認し、開かれた関係としてその中を生きること、その関係のゲームを肯定し、それに信を置くということですね。
松田
もっとお話を続けたいのですが、そろそろ時間が終わりに近づいています。ここからおもしろくなるところなんですが、あと10分では到底終わらない。
飯島
では、お話したことをまとめて頂いて・・・
松田
ええ、まとめるんですか(笑)!本当は、いま竹田先生にお伺いしたことを前提にして、これから核心のところに入りたかったんです。ですから、また機会があれば続きをお願いしたいということで、まとめではなくto be continued。
ヒロコ
 

竹田青嗣
竹田青嗣(たけだせいじ)
哲学者/文芸評論家
1947年大阪生まれ。早稲田大学卒。文芸評論、思想評論とともに、実存論的な人間論を中心として哲学活動を続ける。在日朝鮮人であることを思想の出発点にしながら、民族、共同体などの帰属性を超える原理を探求。現象学、プラトン、ニーチェをベースに、哲学的思考の原理論としての欲望論哲学を展開している。主な著書に『〈在日〉という根拠』『自分を知るための哲学入門』『現代思想の冒険』(ちくま学芸文庫)、『ニーチェ入門』『プラトン入門』(ちくま新書)、『陽水の快楽』(河出文庫)、『現象学入門』(NHKブックス)、『はじめての現象学』(海鳥社)、『恋愛論』(作品社)、『ハイデガー入門』(講談社メチエ)など。

┏ 竹田青嗣公式ホームページ
夏目房之介
夏目房之介(なつめふさのすけ)
漫画評論家
1950年、東京都生まれ。青山学院大学卒。72年にマンガ家としてデビュー。90年代以降はマンガ評論家としても活躍。表現論というアプローチでマンガ評論に新境地を拓く。著書に『手塚治虫はどこにいる』(筑摩書房)、『マンガはなぜ面白いのか』(NHKライブラリー)、『漱石の孫』(実業之日本社)、『マンガの深読み、大人読み』(イースト・プレス)、『マンガ学への挑戦』(NTT出版)など多数。90年、手塚治虫文化特別賞受賞。

夏目房之介の「で?」

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